最近ネット上やSNSで話題になっている「ヌーハラ」という言葉をご存じだろうか。
これは「ヌードルハラスメント」の略であり、主に日本で麺類をすする音をめぐる論争を指しているものである。
筆者は当初ヌーハラと聞いたらヌードハラスメントかと思ったが、それはさすがにハラスメントの領域を超えているので、さすがにないと思ったが、それでも麺をすするだけで悪者扱いされることには驚いたものだ。
ヌーハラに関しては筆者と同様に、「嘘!」「そんなの本当にあるの!?」と思う人も多いだろうが、実際に「うざい」という声も上がっており、論争を巻き起こしている模様。
今回は、そんな噓みたいでおかしいとも思えるような「ヌーハラ」について見ていきたい。
目次
ヌーハラとは?
ヌーハラとは?という質問に関しては、冒頭でも申し上げたように、「ヌードルハラスメント(Noodle Harassment)」の略称である。
主に麺をすする音が不快に感じるという意見から生まれた言葉だが、この言葉が初めて話題になったのは2016年頃で、SNS上で「外国人が日本の麺をすする音に驚いた」といった投稿がなされたのがきっかけだと言われている。
日本では昔から麺をすするのは「美味しそうに食べている証拠」とされており、文化として根づいている。
しかし一部では「音がうるさい」「食事中に気になる」といった声もあり、マナー論争に発展していった。
しかし、ヌーハラがここまで話題になった理由のひとつは、ある企業のキャンペーンも影響している。
2016年に日清食品が「ヌードルハラスメント防止フォーク」を発表したことで、テレビやネットニュースでも大きく取り上げられた。
このフォークは、麺をすする音を電子的に打ち消すというユニークな仕組みを持っていた。
しかし、「そこまでする必要があるのか?」「日本文化を否定している」といった意見も噴出し、賛否両論の嵐を巻き起こしたようだ。
ヌーハラは嘘みたいにおかしい
そもそも「ヌーハラ」という言葉が出てきた当初、多くの日本人は「ヌーハラとは?」、「そんなハラスメント聞いたこともない」と首をかしげる方が多かったようだ。
日常的にラーメンやそば、うどんを食べる日本人にとって、麺をすする音はごく自然な行為であり、誰も気にしていないのが普通である。
それを突然「ハラスメント」と言われれば、「一体誰が被害者なのか?」と突っ込みたくもなる。
実際、ネット上では「ヌーハラは都市伝説のようなもの」「存在しない問題を勝手に作り上げているだけ」といったコメントが相次いだ。
さらにおかしいのは、ヌーハラを問題視しているのが、実は多くの外国人ではなく、日本国内の一部メディアやSNS発信者であったという点だ。
「外国人が嫌がっているらしい」と伝えられたが、当の外国人からは「そんなこと気にしない」「日本の文化として面白い」といった意見が多いようだ。
つまり、ヌーハラ騒動の多くは日本人が勝手に外国人の気持ちを代弁して作り上げた構図であり、あたかも多くの外国人が不快に思っているかのような幻想を作り出していたのだ。
この点がまさに、嘘みたいにおかしい話だと感じる理由であろう。
もちろん、他人の不快感を軽視してよいというわけではないが、「気にする人がいるかもしれないから」といって、文化そのものを否定するのは行き過ぎだ。
むしろ、音を気にするあまりに食事がぎこちなくなる方が、よほど滑稽に見えるし、食事を味わうこともできないだろう。
ヌーハラという言葉が生まれた背景には、「ハラスメント」という言葉の過剰な拡大と、社会の過敏化があるのだ。
つまり、実在する被害よりも「誰かが不快に思うかもしれない」という想像だけで問題化されている点が、まさに“嘘みたいにおかしい”現象といえる。
ヌーハラはうざい!?
海外の反応としては、ヌーハラを問題意識する声は少なく、むしろ日本国内で取り上げられることが多いようだ。
実際に職場でヌーハラ被害にあって、麺をすする音がうざいと感じる方もいれば、ヌーハラといってなんでもハラスメント扱いする方がうざいという声もあるようだ。
どちらかというと、過剰なマナー意識であるという反発の声の方が大きいように思う。
食事のマナーは文化や国によって異なるため、一概にどちらが正しいとは言えないが、
互いの文化を尊重する姿勢こそが、本当の意味での「マナー」であると思う。
というより、海外よりも日本国内の一部でヌーハラに対する意見が上がっているいるので、
対策としては、ラーメン屋等の麺類を提供しているお店には行かない。
(※上司等に誘われても用事があるといって上手いこと断る。)
職場でラーメンをすする方がいれば、極力離れたところで食事をするか、
席を移動できない場合は、耳栓やイヤホン等で音を遮る工夫をする等の対策が考えられる。
考察・まとめ
ヌーハラ問題は、単なる食事マナーの話ではなく、「過剰なハラスメント意識」を象徴する現象でもある。
SNSの普及により、些細な不快感が拡大解釈され、社会的な問題のように大げさに扱われやすくなっているのだ。
本来は「相手を思いやる心」がマナーの基本であるはずが、「他人に合わせる圧力」にすり替わっているケースもある。
また、企業やメディアが話題性を狙って「新しいハラスメント」を作り出す傾向も見逃せない。
ヌーハラはまさにその典型例であり、社会的な共感よりもマーケティング的な話題づくりとして生まれた面が強い。
結論として、「ヌーハラ」という概念は、現代社会におけるマナー意識の過敏化を象徴しているといえる。
日本人が伝統的に培ってきた「麺をすする文化」は、決して悪ではない。
むしろそれは、日本特有の食文化の一部として誇るべきものである。
もちろん、海外の人と一緒に食事をするときには、相手が驚かないよう少し気を遣うことも大切だが、
お国の文化を否定してまで音を消す必要はないだろう。
重要なのは、互いの違いを理解し、尊重し合う姿勢である。
ヌーハラ騒動は、結局のところ「他人の目を気にしすぎる社会」の縮図でもある。
気にしすぎず、しかし無神経にならず適度なバランスを保つことこそが、現代のマナーといえるのではないだろうか。
「ヌーハラ」なんて言葉に振り回されず美味しく麺をすする、そういった姿勢こそが日本らしくも美しい世の中を作り出すと筆者は考える。
なので、筆者自身も周りの目を気にしすぎず、麺をすすっていきたいと思う。